銀座ニコンサロンで今日から開催されている、奥山淳志さんの写真展「あたらしい糸に」を観てきました。

10年ほど前から岩手に住むという奥山さんの写真の被写体は東北。
「東北」という土地が内包する世界を観たいという思いで各地の祭礼行事をみにいくことになったのだそう。はじめはそこに「まだ見ぬ世界」や「憧れ」を見たいと思い、それに触れることは甘美なものでもあったのだそう。だけど東北に住むことになると若干考えが変わる。東北の同時代を生きる者として見れば、それらの祭礼には遠い時代から信じられてきた大きなる物語は既に失われ形骸化されている。が一方で、今でも祭礼を昔と変わらぬ形で続けている人たちの姿も多くある。そのうちにひとつの疑問が湧いてくる。それを続けるのはなぜか。

というのがリーフレットに書かれている(今回の展示は豪華で、DMの他にリーフレットもある)解説の前半部分。

写真一枚一枚にとても迫力がある。
写っている場所、神様、お祭りは、東北という過酷な(寒さなど)環境が作り上げてきたものなのだろうなと思う。
いろんなことがぐるんぐるん頭に浮かんでくる。
石ばかりの山頂に風車が沢山差してあり、風で回っている写真は、舞台は違うし、多分そういう山ではないのだろうけれど、昔読んだ「楢山節考」の、貧しい農村では年老いた者は山に捨てられるという話を思い出した。あの話のお婆さんが息子に背負われて向かったのはこんな場所なのだろうか。
女性もののような赤い着物を着たやや年配の男性の写真では、学生の頃、鴻上尚史の講演会に行った時聞いた話の、お祭りというのは非日常になるもので、なぜかというと非日常という事は神様に近づく(神様と一体化したり近づくこと)ことだからだということを思い出した。
以前新聞の日曜版で読んだのは、昔々、北の国の貧しい村では、子供が生まれ過ぎてしまうと寒い夜に水を含んだ衣類にくるみ、一晩外に置いておいたのだという。それを間引くというのだという。それでも翌朝まで生きていた子は、特別な子供だからと育てられたというけれども大体はそうではなかったのだろう。
生きていくのに厳しい時、祈るものや信じるものがないと、あるいは神様に近づき願う事が出来ないと生きてこれなかったのではないか。
もちろん、豊作で、跳びあがらんばかりに嬉しい時にも神様に感謝したりしたのだろう。
いつも祭礼や神様の存在は身近にあったのだろう。
全く詳しくはないのだけど、諸々の自分が知るエピソードから祭礼の意味を考えたりした。

で、リーフレットの後半部分。
作者はかの地で今でも祭礼を続ける理由の仮説に近い答えをこう書いている。
「大いなる物語の代わりにこの地に暮らす人が探し出そうとしているものは、今の時代を生きる自分たちがこれからもこの土地で生きていくための新たな世界観ではないだろうか。
彼らは新たな糸をつむぐように。新しい世界観を仲間とともに見出し、物語を失い空になった祭礼という器に満たそうとしてういるのではないだろうか。」

写真はみんないい写真でした。
展示は9月8日まで。

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