
昔は読んでも全然面白くなかったのに、大人になってから読み直すと面白くて 驚くほどぐいぐい読めてしまう本があります。
アイザック・ディネーセンの「アフリカの日々」もそうでした。
そして今回「The Great Gatsby (華麗なるギャツビー)」を読んでみて、これも今になって初めて、驚くほどにどんどんと読めてしまいました。
多分、読む「時」というのがあるのでしょうね。
ギャツビーを読んでみようと思った理由は2つ。
ひとつはこの間ディカプリオの2013年版の映画を観た後に、とある映画評論家の解説を聞いて、自分の感想と違っていたのでそれが本当はどうなのか確かめたかったから(①)。
もう一つはこの 「The Great Gatsby 」がアメリカ文学を代表する作品の一つであると評価されているのがどうしてなのか今までわからなかったのですが、それがある解釈で初めて腑に落ち、俄然興味が出てきて読みたくなったから(②)。
ちょうど高校生くらいの時に買って読んだ文庫本があったので、通勤途中に読んでみたところ、満員電車の込み具合も揺れ具合も何のその、あっという間に電車が目的地に着いてしまうくらい夢中になってしまいました。
①の映画評論家と私との認識の相違点は、以下のものです。
ある時デイジーがギャツビーの噂話を耳にした時のこと。
デイジーが、“Gatsby?What’s Gatsby?”(ギャツビー?どちらの?)と言います(2013年版映画予告編 → ※)。
これをその評論家は、デイジーというのは昔ギャツビーという人がいたということさえも忘れてしまっているのだと、それほど空っぽな女なのだと言っていて、そんな女にいつまでもずっと思いを寄せているギャツビーが哀れだというようなことを言っていたのですが・・・。このセリフの時のデイジー、私がその場面を観た印象からすると、昔知っていた人の名、それも、ずっと心の奥に住んでいる人の名と同じ名前を聞いて、あの人なのでは?と思いながらも外には平静を保ちつつ聞いた”Gatsby?What’s Gatsby?”という言葉のように、そのニュアンスを受け取ったのでした。
ギャツビーが恋に対してまるでティーンエイジャーのようなまっすぐな人だったのでその好きな女性がそんな(数年前にお互いに好きだった人も忘れてしまっている)では、そして結末があんなでは可哀想すぎる、と思って少しでも救いがあってほしかったということもあります。
果たして実際は・・・小説では私の思った通りの意味の、”Gatsby?What’s Gatsby”でした。
忘れていなかったよ。良かったね、ギャツビー&ディカプリオ&ロバート・レッドフォード。
②。
アメリカは1920年代まではGNPが世界第2位の国で(大英帝国が第1位)、そんなにお金持ちではなかった。
1900年代になって大金持ちが出現してくる。石油王ロックフェラー、鉄道王(鉄道・自動車・ビル)カーネギー、自動車のフォードなど。アメリカはどんどん株価が上がってお金持ちになっていった。
けれど、アメリカには上流階級が存在しない。すべてのお金持ちが、お爺さんとか曾お爺さんの代までたどると字も読めなかったような農民のような人たち(移民など)になる。それが急に世界一のお金持ちになった。成り上がってきた。
つまりアメリカ人は全員ギャツビーなのだ、アメリカはギャツビーの国なのだ。だから彼らはこのお話が自分のことのように読むのだ。という話。
デイジーはお金や名声や、彼らが追い求めるものの象徴、とのこと。
実はワタシ、ロバート・レッドフォード版の映画の方もDVDで観ました。
(何かについて何か語るにはまず知らなくてはいけないかなと・・・。)
顔が全然違うのに、ディカプリオとレッドフォードの面差しが似ていてびっくり。(「間」のとり方も。同じ人みたい。)
デイジーを真っ直ぐ見つめる目も、似ています。それはギャツビーの面差しだからなのでしょうか。
そして忘れていたけれどロバート・レッドフォードもどこかかわいい所のある、とてもとても魅力的な人なんですよね。ギャツビーの配役は、ディカプリオ共々とてもいいと思いました。
そんな二人のギャツビーの最後が空虚なものでいたたまれません。
デイジーは、2013年の方がいいかな・・・。
読んでみて映画を観て、やっぱりなにか心に引っかき傷を作っていくようなお話だと思いました。
その傷がヒリヒリ痛んで、覚えているんでしょうね。